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聖ヘレナ皇太后         St. Helena Vid.                記念日 8月 18日


 ローマ帝国に於いて初めてキリスト教信仰の自由を与えたのは、言うまでもなく歴史に名高いコンスタンチノ大帝であるが、それまで300年の長い間続いた迫害に、従容教えに殉じて死に赴く信者達の天晴れな態度は、その平生の立派な行いと共に、心ある者の感嘆を呼び起こすに十分であった。コンスタンチノ大帝の父コンスタンチオや母ヘレナもこの感嘆を禁じ得ずキリスト教に深い敬意を有するに至った。そしてヘレナの如きはついに受洗し、後世聖女と仰がれるまでその信仰に徹したのである。
 聖女生誕の年は定かではないが、何でも250年前後であったろうと推定される。それは初子なるコンスタンチノが274年2月27日に生まれているからである。しかしヘレナの生まれ故郷は明らかで、小アジア、ビチニア州のドレパヌムという所であった。両親は爵位もなければ財産もない人々であったから、若いヘレナも働いて糊口を得なければならなかったが、生まれつき器量も美しく心だても善かった所から、丁度ビチニアに勤務中のローマ将校コンスタンチオに見いだされ、とうとうその妻となった。彼女が初産したのは、当時ナイススと呼ばれていた今のニッシュ市(セルビア領内にある)で、その子が即ちコンスタンチノであった。コンスタンチノとは小さいコンスタンチオという意味である。
 そのうちに夫コンスタンチオは次第に昇進してマクシミアノ皇帝の寵臣となり、また部下の気受けも甚だよく、やがてはローマ帝国西部の総督として、ガリア、南ドイツ、イスパニア、ブリタニア等諸地方の統治を委ねられることとなった。但しそれには条件があって、第一、妻ヘレナを去ってマクシミアノの皇女テオドラを娶ること、第二、息子コンスタンチノを人質として小アジアのニコメジアなるリチニオの邸宅に送ることの二箇条が要求されたのである。コンスタンチオは始めかかる道に外れた要求には応ぜられぬと考えていたが、勃々たる野心は押さえ難くついに妻子を犠牲にする覚悟を定めた。それはあたかも292年のことであった。
 ヘレナは感情を抑え淋しい諦めを以て黙々と身を引いた。コンスタンチノは東ローマ総督リチニオの邸宅に人質となって行った。かくて父コンスタンチオは宿望を遂げて西ローマの総督となったが病に倒れるや我が子を呼び戻そうとした。リチニオはそれを知るとコンスタンチノを毒殺しようとしたけれど、辛くも難を逃れたコンスタンチノは父の許に帰り、306年父をあの世に見送った後、軍部の支持を受けてその後継総督となった。
 彼はそれから母ヘレナを、ドイツのトリールなる己の邸に呼び迎え、父が彼女から奪った位と権利とをことごとく返し与えた。そして名高いミルヴィオ橋の一戦に勝利を得るや、西ローマ国皇帝として首府ローマに居を移し、母ヘレナに皇太后アウグスタという尊号を贈り、貨幣の鋳造権を与え、またその生まれ故郷ドレパヌム市を美化して之にヘレノポリス(ヘレナの町)と命名し、幾久しく母を記念するよすがとした。
 しかしつぶさに辛酸をなめたヘレナは、もはや煙のようにはかない浮き世の栄華などに心引かれはしなかった。却って永遠不朽の幸福を説くキリスト教にことごとく傾倒し、遂に60歳の時願い出て洗礼の恵みを受けるに至った。歴史家として名あるオイゼビオは彼女を評して「主イエズス・キリストから親しく教えを受けた如く、その信仰は堅固にその熱心は著しかった」と記している。
 ヘレナは身皇太后の高き位に在り、殊に貨幣の鋳造権を有していた為に甚だ富裕であったが、彼女は貧民救済や聖堂建立にはいささかも惜しむ色なく金銭を抛ち、わが尊い身分を忘れて貧しい人々と共に聖式にあずかり共に祈ることを好んだ。
 コンスタンチノはその後首府を我が身の記念として東の方コンスタンチノープル(コンスタンチノの市の義)に移した。
 ヘレナは主イエズス・キリストがその聖き御生涯を送り給うたパレスチナに近く住み得る幸いを心から喜び、また聖地参詣を思い立って326年その望みを果たした。教敵は昔聖遺物隠滅の為、カルワリオ山頂の主の十字架を何処へか投げ捨て代わりに女神ヴェヌスの像を建てたが、ヘレナは苦心惨憺、諸々を発掘の末、ついに聖十字架発見に成功した。    聖十字架の発見の記念
 ヘレナはそれから更に聖主の御誕生地ベトレヘム及び御昇天オリーブ山に記念の聖堂を建立し、数多の遺物を携えてコンスタンチノープルに戻ったが、幾程もなく天主の御召しを受けてこの世を去った。享年およそ80と言われている。その画像は頭に美麗な冠を戴き、豪華なマントを纏い、威儀を正した皇太后の服装で十字架を抱いている様に描くのが普通である。

教訓

 聖女ヘレナはコンスタンチノ大帝の皇太后としてよりも、むしろキリストの十字架を発見し、これを救霊の印と仰ぎ大いなる崇敬を尽くしたことによって後世に名を残した。我等人間の幸福というものは、この世の位階勲等や名誉を得るよりもむしろ信仰を熱心に守る所に在すのではあるまいか。聖パウロも「天主は智者を辱しめんとして世の愚かなる所を召し給い、強き所を辱しめんとて世の弱き所を召し給い、現にある所を滅ぼさんとて、世の卑しき所、ないがしろにせらるる所、無き所をば召し給いしなり」と記している。